ABOUT

Biography

1971年4月20日練馬区生まれ。
90年代のフリースタイル全盛期、
トップライダーとしてシーンに大きな影響を及ぼしたプロスノーボーダー。
彼はスノーボードというジャンルだけに縛られず、
10代から変わらず”かっこいい”を追い求め続けている。
人生を賭けて”かっこいい”を追い求めた結果、
スノーボード・サーフィン・アート・DJ・ピストバイクの5つが彼に残った。
20代の時はなんでもやってるいい加減なやつと言われたこともあった。
しかし彼は行動を止めなかった。
なぜなら全てにおいて彼は本気であり、
各シーンで得た経験はスノーボーダーとして生きることへ還元されている。
遠回りもしたかもしれないが、ミックスカルチャーを求め続けた結果、
時代がやっとジャンルを超えて活動する人に追いついた。
そして最終地点として彼が選んだ道が自身の手でのスノーボードシェイプである。

SNOW

父親の影響でスキーを始め、18歳の時にクレイグ・ケリーの映像を観てスノーボードカルチャーに憧れを抱きスノーボードを始める。そして予備校へ行くためのお金で単身アメリカへ足を運び、そこから彼のスノーボーダーとしての人生が本格的に始まる。

海外へ行って滑ることがまだ主流ではない時代に、アメリカやカナダで滑り込み、日本人は外国人には勝てないとされていたその考えを彼が払拭した。いわば逆輸入な彼のライディングスキルとスタイルで、1994年に初開催されたニッポンオープンでブライアンイグチら有名ライダーを抑え入賞し、1996年にJOYRIDEというアメリカのブランドからシグネチャーボードをリリース。帰国後メンバーを招集し、今のHITRIBEの原型となるSOBUTを立ち上げる。日本発のブランドとして日本のスノーボードシーンを席巻したSOBUTだったが2000年頭に解散。しかし、SOBUTは解散しても彼らは表現者として変わらず上を目指し続けた。

そして20年の時を経てHITRIBEは復刻した。20年前は工場に作ってもらってたが、今は自分自身の手で1本ずつシェイプし、自分でアートを描いて、自分で乗る。サーフィンライクなライディングという当時のコンセプトは変わらず、現代のテクノロジーを掛け合わせてアップデートされた。滑り手としての長年の経験が、自身の手で直接板に反映されている。それこそがHITRIBEボードである。

RESULT

TENJIN BANKED SLALOM 2025|Grand master:3位

TENJIN BANKED SLALOM 2024|Grand master:優勝

TENJIN BANKED SLALOM 2023|Grand master:優勝

SURF

実はスノーボードよりも先に16歳の時にサーフィンを始めていた。しかしライフスタイルの中心は海ではなく、雪山の生活だった。彼がスノーボーダーとして最前線で活躍していた頃、彼がスノーボードを始めるきっかけとなったクレイグケリーが雪崩事故により亡くなった。そこで彼のスノーボーダーとしての気持ちが一度燃え尽き、心も死んだ。

当時40代に差し掛かろうとしていた時に、体が動くうちにやりたいことは何なのかを考え直した。その結果がサーフィンだった。彼は、スノーボーダーとしてシーンの最前線で活動するのを休止している間、鵠沼海岸に家を借り、誰よりも早くそして多く海に入った。決してプロを目指していたわけではない。ただやりたいから。ただかっこいいから。そんな理由で彼はサーフィンを続けた。

スノーボードシーンに戻ってきた今、彼の滑りはサーフィンライクな「スタイルマスター」と言われている。それはサーフィン中心の時期があったからこそ、HITRIBEの魅力を最大限引き出しているのかもしれない。

ART

彼の最初のアートはスノーボードにステッカーを貼るところから始まった。だんだんとステッカーを貼るだけでは物足りず、乗り物にデコレーションする気持ちで板にアートを描き始めた。

そんな活動を30年以上続け、今では個展を行ったり、アパレル制作やブランドとのコラボレーションを行ったりなど、アーティストとしての側面も彼の活動を語る上では必要不可欠な存在となった。今では、彼が使うギアには全て彼のアートが施されている。彼が横乗りをする上で、命を預けるギアにはアートを通して魂が宿っている。HITRIBEも同様にただのギアではない。

HITRIBEボードは、ただの板ではなくSHINGO420ARTの魂が宿ったアート作品である。そしてそのギアを使って、非圧雪を描く彼のラインも一筆書きのアートである。

DJ

ゲレンデではスピーカーから音楽が流れ、スノーボードのイベントがあればDJが音楽を流す。滑る時にヘッドホンをしてお気に入りの音楽を聴きながら滑ることもあった。横乗りと音楽は切っても切り離せない関係である。

そんな自然な流れから彼はDJを始めることとなった。しかし彼は雪山だけでなく、音楽シーンの”かっこいい”を追い求め、DJとして街へ足を運んだ。プロスノーボーダーであることは隠し、DJとして渋谷や六本木など最先端のクラブでゲストとして出演を重ね、シーンの最前線まで駆け上がった。そしてDJとしての経験がスノーボードにも還元され、当時、並行して活動していたSOBUTはクラブで板を展示したり、レイヴで展示会を行うこともあった。

SOBUTが日本のスノーボードシーンの一時代を築き上げたのは、彼の活動が雪山だけでなく、街での活動など、異なるシーンをミックスさせたからなのかもしれない。

OTHER

彼を語る上でもう一つ重要なのがピストバイクである。 彼は、渋谷の神泉という道玄坂を駆け上ったピークに「SEXSON SUPER PEACE」というピストバイクのお店を構えていた。 彼の磨き上げられたセンスでギアをセレクトした「SEXSON SUPER PEACE」はピストバイクのカスタムショップとして、 国内だけでなく海外から彼のお店に買い付けに来るほどであった。

そもそもなぜ彼はピストバイクに乗り始めたのか? スノーボードもサーフィンも車みたいにブレーキが付いていない。そしてピストバイクもブレーキが付いていないと聞いた時に彼はピンときた。 ブレーキが付いていない乗り物に乗り、街中のダウンヒルを下り、ターンを刻み、スキッドというパワースライドでブレーキをかける。 彼にとってピストバイクとスノーボードは限りなく同じであった。

彼は、渋谷のピークにあるお店からの帰り道はまるでスノーボードのようにダウンヒルを下る日々だった。 トップスピードでラインを描きながら駆け降りる。そんな時期があったことも、天神バンクドスラローム連覇につながっているのかもしれない。